もともとはあんこメーカーからスタート
私ども丸京製菓株式会社は、創業55年になる会社です。
もともとあんこ屋からのスタートです。
あんこ屋さんが、自分たちのあんこを使って和菓子など、完成品をつくって全国に販売したいと思ってスタートしたのが丸京製菓です。 丸京製菓の丸は日の丸の丸。これは日本をあらわします。丸京製菓の京は京都の京ではなく、京は栄えるという意味があるんです。
北京、南京、東京、京都、すべて京がつきます。日本で栄えるお菓子屋さんにしたい、という思いがそのときのオーナーにあったんでしょうね。
私のおやじ、またはおじいさんは、実はオーナーではなく、番頭さんといいますか、今でいうCOOっていうのでしょうか。経営者には変わりはないんですけど、オーナーは別にいらっしゃいました。私も幼少のころからそのあんこ屋さん、丸京製菓なんですけど、生活を一緒にしながら育ってきました。しかし、オーナーはオーナーの息子さんがいらっしゃる。自分ではこの稼業は継げないということで、大学卒業後、ケーキ屋に勤めました。パティシエを目指したんですね。その当時は今みたいにパティシエなんてハイカラな言葉はありません。職人さんです。
地元の米子に帰って、何とか洋菓子屋でも開けたらええなというふうに思っていたんです。神戸で3年半の間、勤めて洋菓子の技術を学んできました。
その後、資金稼ぎに丸京製菓株式会社に入りました。いつか独立したいと思っていたのです。
人生の機転時
ところが、今から18年前、33才のときです。売り上げシェアが80%のお客さんをなくすダメージを丸京製菓は負いました。そのときにオーナーが、丸京製菓やめてもいいよって、言われたんです。
これだと思いましたね。どうせ帰って金ためて、ケーキ屋でもやろうと思ったときに、この会社買えるんと違うかと思ったんですよ。
そのときオーナーに、会社経営をやらせて欲しいということを告げました。回答は、だめだと言われました。別に買うのは自由でしょう、やらせてもらってもいいじゃないかと嘆願したら、33才では、若過ぎると言われました。オーナー曰く、「ちょっと考えてみなさい、事業というのは、仕入れがあって、お金があって、初めて成り立つ。あんたみたいな若造に信用なんてあるわけがないだろう。銀行は今まであんこ屋としての実績があったから金貸してくれたんだけど、おまえなんかに貸してくれるわけねえだろう」と。そのとおりだなと思ったんですね。
考え直しました。30年分の事業計画を仕上げるため、1週間、机に座り込んで書き上げました。オーナーに持っていったら、だめだ、だめだの連続です。全くそのとおりのことばっかりでした。猛勉強しました。書いて書いて書いて書いて、やっと1年かかってオーナーが一言、言ってくれたんです。
「よし、だったらやってみろ。」
やったあと思いました。ただ条件がありました。雇われ社長からって言われたんです。年間、その経営計画書に沿ってやってみて、3年計画が計画どおり進んだら会社を譲るって言ってくれました。
社長業としての苦労
3年間はただひたすらに、まず売り上げ回復だと。観光土産の下請、スーパーさんの下請、問屋さんの下請、いろんな下請をやっていました。東京などへの営業も車で行っていました。
今は鳥取という車のナンバーですけども、その当時は「鳥」だけだったんですよ。おまえ鳥って、どこから来たんだって。鳥取ですよって言うと、どこそれってよく言われました。私どもは米子市ですけど、「よなご」って読んでくれないんですね。
米の子って書きます。よって、「こめこ」。
そんな環境の中、何とかかんとか3年間過ぎながら、売り上げは倍の6億円になりました。そして次の段階です。会社を大きくするため、工場の増設なども考えていました。
2つ違いの弟が東京でリクルートに勤めていました。私は弟に言いました。実は、おれ社長になるんだよ。それでな、どうしても片腕が必要なんだよ、弟よ、ぜひおれの片腕になってくれ。
いいよ、兄貴の計画書を見せてくれというんです。
サラリーマンの弟には立派に見えたんでしょうね。これって行けるんじゃないかっていうふうに思ってくれたのです。晴れて弟が入社となり、そして私も出来る限りのお金を出しまして、初めてオーナーになりました。
今、兄弟で経営していますが、よく言われるんです、けんかしませんか。いろんなこと言われるんですけど、今でもお互いの事業領域を分けながら仕事をしております。
下請けからメーカーへ
とある日、社員に言われました。
「社長、いつまで忍者みたいな仕事をすりゃいいんですか、僕たちは。社長はあのとき言ったじゃないですか、未来をつくろうって。」
これからは、名を名乗って商売していかねばならんというふうに思いました。決めたんです。どらやきでメーカー展開をしていこうと。どらやきで日本一になる、世界一という目標を掲げました。
よく聞かれるのは、何でどらやきなのかと。新しい世代に受ける和菓子って一体何だろうというふうにマーケットリサーチをしたところ、大福、そしてだんご、そしてどらやき、この3つはいけるなと思ったんですよ。私どもは焼き物が主だったものですから、どらやきを選んだのです。そして、どらやきはロングライフであるというのがこの後の海外事業に直結していきます。
もう一つ、私の嫁は、学生のころのニックネームがどらちゃんと呼ばれていまして、ドラえもんに似ているんですよ、実は。どらちゃんでいいじゃないかと、嫁にも賛同いただきまして、じゃあどらやきにしようと決めたんです。物すごく私的な要素ですよね。
丸京のどらやきが美味しいワケ
氷温技術というものがあります。私ども鳥取県米子市から発明されました。
分かりやすく言いますと、夏ネギは苦いけども冬ネギは甘い。 農作物って結構氷温帯に熟成されて育成された冬ものは甘くておいしいんです。その技術を分析し、応用したのが氷温技術です。凍るか凍らないかの、ぎりぎりの所です。
鳥取の特産品、二十世紀ナシが1年間たってもみずみずしく食べられるのです。何とかこの技術をどら焼きに転化していきたいと思いました。どら焼きに氷温技術を用いたら、甘抜けもいいし、水分保湿も高いし、優しい味になるし、素材のよさも出てくる。何かもう、すごいべっぴんな美人さんに出会ったみたいな感じで出来上がりました。
もうどんぴしゃり、はまりました。
氷温技術のメリットに長期保存が出来ることがあります。この点もあって海外へ進出が可能になりました。
味の点においては、やめられない、とまらない、カルビーかっぱえびせんのようにしたいなと思ったんです。当社は5個パックが主になっています。5個を1人で食べれるような味抜け、リピーター、リピートができるような味にできないかなと思ったんですね。やめられない、とまらない、どらやきっていうのを作ってみたい、作ってみせるって思っています。
どらやきの街、米子を目指して
「どらやきのまち米子」というタイトルをつけまして、作戦に出ました。
おかげさまで2008年度、1工場で単一 1億2,000万個生産という工場になりました。単一工場日本一の生産量になったのです。
この米子でお世話になっているわけですから、この日本一を街の誇りにしてもらったらどうだろうと思ったんです。私ども若い社員がみんな常々言うんです。社長、若い人間がいないよねと。県外からたまに里帰りしてくると、鳥取は住みやすいけど住みたくないなと。住みやすいけど住みたくない、何じゃそりゃと思ったんですね。
自然があるし、1人当たりの公民館数とか病院数とかも多いんです。東京よりも住みやすいに決まっています。しかし、魅力がないと言われるのです。
何でだろうと思ったら、結局誇れるものがないんですよね。確かに自然はあります。大山という山がありますし、中海という湖があります。誇れるものが自然はいっぱいあるんですけど、若い人にとっては、自然ってそんなに誇れるものではないんでしょう。
ならば、米子はどらやきの街だと、自分から手を挙げたのです。
反対されるかもしれんけど、そこからやってみようって思いました。まず、やり始めたのが、工場を開放して一般市民に見ていただくという工場祭です。1,000人来てくれました。うれしかったです。
2年目、1,500人来てくれました。うれしかったです。3年目、5年目、7年目と今年で11回になりますけども、1万6,000人の方が工場見学に来ていただけるようになりました。鳥取県米子市のまちの人口は13万人です。13万人で1万6,000人ですから、1割以上の市民が来てくれているんですよ。
そして、日本一だということを誇らしげにうたっています。子供たちが、わあ、日本一のどらやきなんだとうれしげに帰っていきます。こんなことをやっていますと、市長、並びに地元の教育、JR、スポーツ関係の方、文化関係の方、タレント、シンガーソングライター、いろんな方が、丸京のどらドラ工場祭に出してよというふうに言ってくれました。
来年は非常に楽しみです。2万人は超えるのではと思っています。米子の一つの祭りになって感があります。
さらに、どらやきの日をつくりました。
4月4日はどらやきの日です。4と4を合わせて幸せになろうという意味合いです。どらやきを食べて幸せになろうというスローガンでこの記念日を設定しています。3月3日女の子の日、5月5日男の子の日、そして間の4月4日はおかまの日ではなく、みんなでという意味で真ん中にしました。
4月は花よりだんごでして、4月の頭って和菓子が物すごく売れるんですよ。その売れるときに記念日を設けて、全国のマーケットで使っていただこうという魂胆もあります。商売根性丸出しなんです、恐縮です。